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第3講 切実な自己表現

更新日:2019年3月1日

皆さんも小さい頃、自分の感情や思いを上手く言葉にできず、歯がゆい思いをしたことはありませんか。社会に出たら、組織内の上下関係や周囲との軋轢から、言葉にはできるけれど発言できない状況に変化したのではないでしょうか。相手への思いやりや自分の保身もあるでしょう。しかし、発言すべき時に言葉にできないのはつらいものです。


ジョージア(旧表記はグルジア)の首都トビリシの全景パノラマ写真です。ジョージアは北にロシア、南にトルコと接し、古来からヨーロッパとアジアを結ぶ交通の要所で、今後の経済発展を見込んだ他国からの投資が盛んになっています。ちなみに、旧ソビエト連邦の最高指導者ヨシフ・スターリンはジョージアの出身です。

クジラと牛の戦い

私がロンドンに初赴任した1990年当時、イギリスはサッチャー首相政権下でしたが、色々あって求心力が下がり、間もなくジョン・メージャー首相に政権交代しました。大卒学歴を持たない首相として話題になり、日本の田中角栄首相を思い起こした記憶があります。


その頃通っていたロンドンの英語学校で自由討論の授業があり、「なぜ日本人はクジラを殺して食べるのか」という非難めいた話題になりました。当時、グリーンピースなどの反捕鯨団体が世の中を賑わせていたからです。彼らの正体は、平和団体を装って社会正義風スローガンを掲げ、その旗を利用したい浅はかな企業や個人からの寄付金集めを生業とした完全な営利団体です。残念ながら、そんな怪しい本性を当時の私は全く知りませんでした。


しかし、日本の伝統文化を西洋人にコケにされて黙っはいられません。私の反論です。


「あなた方だって牛を食べるでしょ。牛は良くてクジラは駄目なんですか。仏教徒のように全ての生命を尊び、一切の殺生をしないのであれば論理的に筋は通ります。あなた方は、ほ乳類とそれ以外の動物との間に、優劣の境界線を引いているだけです。自分達に都合の良いように生命に優劣をつける発想が、歴史的にも選民思想(ユダヤ教やキリスト教など)や優越民族/民族浄化の思想(ナチスのアーリア人至上主義など)を生み出し、人種差別や民族紛争を引き起こす諸悪の根源なのではありませんか。鯨油を採るためだけに膨大な数のクジラを殺戮してきた西洋人に、クジラの全部位を資源として有効活用してきた日本人のエコロジーな知恵と文化を、とやかく言われる筋合いはありません。」


残念ながら、そんな難しい内容を当時の私は全く英語で発言できませんでした。


標高727メートル、聖ダヴィトが修行したとされる "聖なる山" ことムタツミンダ山です。頂上にはTV塔や娯楽施設が建っており、白い建物(レストラン)の場所から眺めたトビリシの街が上の全景パノラマ写真です。

理不尽に向き合う

海外旅行先で、道を尋ねたり何かを教えてもらうのは自己都合の問いかけです。対応してくれた方に感謝できます。しかし、ロンドンへは赴任・駐在ですので、銀行口座を開設したり、市民(納税者)として色々届出しをしたりと、旅行とは異なる諸手続きが必要でした。


そうした過程で「違うよな」と思うことが何度かありましたが、うまく意思表示することができません。意思表示して問い質さない限り、その理不尽を承認したことになってしまいます。


当事者間で何か理不尽な出来事や、納得いかない出来事が生じた場合、自分の感情や思いを論理的に言語化できないと、社会的存在としての自己を守れず、泣き寝入りの憂き目に会いかねません。


単に自尊心が傷つくだけで済めば良いのですが、特に異国や社会・文化的背景が異なる地では、生命の危機にまで発展する可能性が大いにあります。そんな環境下で自立した社会人であり続けるには、自己同一性(アイデンティティ)を賭けて自己表現に臨む勇気が必要です。


英語だけじゃない

オランダの現地法人設立に伴い、ロンドンからアムステルダム近郊へと転勤になりました。夏季休暇に家族3人でスペイン・マヨルカ島へ旅行した時のことです。息子も遠浅の白砂浜で透明な海水に戯れていたので、欧州赴任して5~6年は経っていたでしょう。当然ながら英語生活や英語口論に何ら不自由はありませんでした。


クラブメッド(Club Med)を使った旅行でしたので、滞在中はほぼホテルとビーチの徒歩往復でした。その日はぶらりと商店街に繰り出し、地元のニューススタンド(キオスクみたいな新聞・雑誌の売店)に寄って、スペイン語の自動車専門誌を購入しました。英国でも情報量が少ないロータス・エスプリV8(当時の最新車種)の記事が載っていたためです。


まだEU統合前でしたので、 旧通貨のペセタ(peseta)で代金を支払い、ワクワクしながら店を出ようとした時です。どうもお釣りが怪しいことに気付きました。日本と違い店員の信頼性が低い欧州では、現金は必ず確認するのが赴任時からの習慣です。「お釣りが間違っているよ」と女性店員に告げると、あからさまに慌てふためき、追加のお釣りを渡してお店の奥に逃げ込んでいきました。


案の定、私を日本からの "カモ" な観光客だと勘違いし、恣意的に騙しにかかったのです。これが海外観光地の悲しい現実です。しかし、残念なことに私は既に5~6年間は異文化の洗礼を受け、理不尽に抗する感性と耐性が十分出来上がっていました。


私はスペイン語を理解できませんし、言葉として発することもできません。マヨルカ島での深いコミュニケーションにはスペイン語能力が不可欠だったでしょう。欧州における英語はまるで方言の一種みたいに、ほんの数箇国でしか通じないからです。かといって、あらゆる言語に精通するのは困難です。そこで重要なのが、言語をツールとして操るための根源的な条件設定です。"自己表現する本能" を高めておくこと、そして表現対象である "自分自身の感性" を磨いておくことです。空虚な事柄は表現のしようがありませんから。実はそこにこそ、コミュニケーション能力の本質が潜んでいるのかもしれません。


社会的存在であるためには自己表現力が不可欠である。
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